セミナーなんかにいくと、自分の所属と名前が書いた名札を受付でもらう。さすがに安全ピンのタイプは最近見ないけれど、2つに分かれる。1つは首からぶら下げる社員証みたいなタイプ。もう1つはシルバーのクリップで挟むタイプ。

結論から言ってしまうと、創ってくれる主催者側には申し訳ないけれど、僕はどちらもつけたくないので、机に放り投げてしまう。

首からぶら下げるタイプのもの。

間抜けにしか見えない。たいていの場合、首に下げる部分の紐はまさに紐で、主催者側が使いまわしていると、ひどいときには汚れていたり破れていたり。また、ネームの入ったプラスチックの部分も、それ以上にどうにかできるわけではない。

いずれにせよ、一言で言えば”チープ”な素材で、それが自分を語ってしまうことに、うんざりするのだ。せっかく服装や持ち物に気を払ったところで、体の中心に位置してしまう名札1つだけで、なんだか全部を壊された気持ちになってしまう。

挟むタイプのもの。

こっちのほうが気に食わない。ジャケットを着ないならば、シャツのポケットに挟めということを示唆している。いやいや、そもそもシャツにポケットないですから。シャツにはポケットがあるという誤った認識を助長させる名札を好きにはなれない。ジャケットを着れば胸ポケットがあるよ?と指摘を受けそうだが、ジャケットの胸ポケットはチーフを入れるためだけに存在しているのであって、名札を挟む場所でもないし、生地が痛む。同様に、ラペルに挟むことも生地を炒めるだけではなく、余計な重みをラペルにかけることになり、結果としてあのラペルのふんわり感に影響しそうだと心配してしまう。

さて、では、この名札問題をどう解決するのか?

そもそも論だけれども、小さく印字された名前を見て話すなんて失礼なようにも思ってしまう。初対面なら、日本文化では名刺交換できるわけだし、それを見ればいい。また、何度も会っていて名前を覚えていないならば、それはビジネスの姿勢として問題。また、話すときには顔を見ればいいし、どうしても名前が必要ならば、(海外においては)「発音が難しいから、なんか簡単な呼び名を教えていただけませんか?」とか、(名前を忘れてしまっていて、日本なら)「漢字はどのように書けばいいですか?」と尋ねればいい。そして、僕なら、その場でメモを取る。忘れないし、教えてくれた相手も僕の書いた漢字のメモを見て、安心するだろうし、少なくとも気分は害さない。

話をもとに戻そう。

名札は不要ということ。チープな名札のために、無駄な労力と資源を使う必要はない。

服装というものが、その人を表している。決して、名札なんかで代弁できるものではないし、名前を知っている知らないでその相手を好き嫌いするような器量のない人と別に仲良くなる必要もないように思える。

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