プロフェッショナルの仕事を“観る”ことは、カタルシスになる。

大抵の場合、プロの仕事を見過ごすことのほうが多い。

 

それは、あまりにも突然、そして、何もなかったように自然に行われるから。

それは、あまりにも高いレベルで、素人の僕たちには分からないレベルで“上演”されるから。

 

今、ちょうど日本にアフリカを始め、途上国〜中進国の8名を日本に招いて研修をしている。そこで、ある大手の自動車メーカーの工場に行って、一緒に仕事をさせてもらっている人の通訳を聴くことができた。決して、発音がネイティブなわけでもなければ、難しい単語を使うわけではない。何がプロなのか、2週間くらい一緒に仕事していたけれど、通訳という場面はなかったので、プロの技を“観る”ことはできていなかった。

 

当たり前な話だけれど、自分よりも能力が優れた人のレベルを正確に図ることはできない。例えばスポーツを考えて見れば分かる。サッカー(僕はしたことがない)シュートが入るとか、ロングボールを何もなかったようにトラップする、ということは素人から見てもすごいということは分かる。ただ、じゃ、中田選手がすごいのか、大迫選手がすごいのか、比較もできなければ、違いも分からない。彼らに近いレベルにある人か、サッカーを“知っている”人にしか、正確な評価はできない。その意味で、英語もそう。自分よりも、能力的に劣った人を評価することはそれほど難しくない。あ、この人は語彙数が少ないなとか、文法がデタラメだなとか、ある程度能力は分かる。ただ、自分以上の能力は、なんとなくは分かるけれど、正確にどれほど高いレベルにあるかは分からない。

 

話を戻し、その彼がプロだと驚嘆することになった理由は、2つある。

1つは、あまりに地味であること。

基本的に関係代名詞とか難しい文法はない。文章をつなぐとしても、分詞構文か等位接続語(and, but, or)が多い(彼の癖かもしれないけど)。単語も、難しいものはない。だから、頭から聞いて、綺麗に意味が伝わる。通常、英語→日本語にせよ、いかにそのまま伝えるか?=いかに直訳するか?に重きを置いてしまって、不自然になってしまう。

例えば、「この工場は、従業員が1,000人いて、会社では最も大きい工場です。」という何気ない文章は、「The factory has 1,000 employees and it is the largest factory in the company」くらいになるんかなと。でも、彼は、「The factory is the largest in our company because there are 1,000 employees. 」みたいなことが普通にできる。There is 構文とか高校の最初に習ったことが、通訳をすると、原文にひっぱられて出てこない。あと、Because が日本語になっていないから、出てこない。日本語だと、名詞の重複は気にならないけれど、英語だと目につく。それを瞬間的に除去する。ourのように、話者が出していないけれど、意味している所有格を明確に引っ張ってくる。能力の劣る僕の観察だから、これ以上に瞬間的に‘技’を繰り出しているかもしれないけれど、見えただけでもこんな感じ。その‘技’は決して派手なものではない。瞬間でそれができるか、熟考しないとできないか、そこには恐ろしいほどの高い壁が存在する。

 

もう1つは、正確であること。

要するに、‘意訳’をせずに、原文を確実に訳すことができる。例えば、文章が長くなれば、「結局Aなのよ。」ということは伝えることができたとして、その理由が3つくらいあると、頭の許容量は一杯になって、せいぜい1,2個しか出せない。そういう理由もあって、大抵の場合、日本語→英語の場合、日本語の長さよりも、英語の長さが短くなる。つまり、訳されていない原文もあるわけで、その意味で正確性に欠ける。

ただ、彼は確実に訳す。

特に秀逸なのは、a, the, 数字が何一つ抜けることがない。英語を話してみれば分かるけど、They is なんて文章は、平気に出てくる。当然、発話と同時にミスったということは認識しているけれど、第二外国語同士であれば、キーになるは名詞と動詞で、冠詞や数詞が問題となることは多くない。でも、これは正確性を欠く。

 

あまりに興奮しちゃって、全然スーツの話してないや。

そう、スーツね。これも着こなしがうまいかどうかに関わる2つの要素だなと思ったって話。

  • 地味であること

ボー・ブランメルの寸言として、「街を歩いていて、人からあまりじろじろと見られているときは、君の服装は凝りすぎているのだ」というものがある。シンプルであること、目立たないことを美徳としている。

 

  • 正確であること

サイズをcm単位で揃えるとか、そういう意味もあるけれど。。。

タッセルローファーを履きつつ、普通にスーツは着ない。とか、そういう類の着こなしの温度的なものをを守る姿勢。タッセルを履いて、スーツを着るなら、絶対に“外す”ことを暗示させるなにかがあるはずだと思う。例えば、ズボンの裾は18-19cm 等の細めであること、ノークッションであること、チーフとタイと柄柄してること、シャツの生地がブロードではないこと、ニットタイなんかもいいかもしれない。スーツ自体がダブルであること。

いずれにせよ、タッセルとスーツを“正確”に用いることができるのが、ウェルドレッサーだろうなと思う。

 

本質的に装うということ自体がコミュニケーションで、服装自体が内面の表れで、スーツそれ自体がインターフェイスであるならば、言語という媒体とは、様々な部分で一致するのは、合点がいく。

 

あまりにも彼の仕事が美しかったという話。

そして、美しさはいつだって、心を洗ってくれるという話。

 

歳がさほど変わらない彼と比較して呆然としていた僕は、胸をなでおろすことができた。

彼は、イギリスで1年”通訳”の修士課程を経験していた。そして、その後日本で10年間通訳の学校に通い続けている。彼の時間と金銭上の投資は膨大だった。そして、何よりも努力と向上心。これらの上に成り立つ”技”なのだ。比較すること自体、愚かで、身の丈をわかっていない行為だったのだ。

 

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