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不条理(ふじょうり)は、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す。(中略)不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。(Wikipediaより)

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心地よい季節。春。

 

仕事の際、タイはあるべきか(クールビズはありかなしか)という話題は、議論が2つに割れるからおもしろい。オタクと無関心の2軸。

 

オタクは云う。

タイがなければ見た目のバランスが損なわれる。色や柄が失われてしまう。スーツにはネクタイはある“べき”だ。僕もネクタイはあるべきだとする立場なんだけど、この一発で息の根を止められてしまう。

 

「ネクタイをすることに、何も意味はないじゃん」

 

そう。ネクタイをシルクからリネンに変えたからって、暑さから僕たちを救ってくれるわけでもない。見た目を気にしない(男という動物は、たいていの場合“無神経さ”と(自分だけの)“合理性”を基に行動する生き物だ)。多様性を重んじる現代において、タイをするということを誰が決めたのか(いや、むしろしないほうが好ましいと政府は言っているじゃないか)。

無関心であればあるほどに“無神経さ”と“(自分だけの)合理性”は助長される。それは、別にオタク君をはじめとする他者が責められるものでもない。個人の選択だから。

 

 

 

 

普通にこの議論を整理すると、主体(誰がそのスーツ姿を判断するのか)という視点の差が、オタク君と無関心君の間に生じている。

オタク君は、「見る相手」を考慮に入れている。無関心君は、自分だけが主体である前提で発言する。だから、この議論の差が埋まることは決してない。

ただ2005年、小泉政権下の環境省(大臣は小池百合子)がクールビズを主導して、もう14年。そろそろ、議論の決着をつけておいてもいいのではないだろうかとふと思った。今日僕は暖かな新宿 —東京都庁近辺— をプラプラしていたから。

 

 

「アンカリング」で、この2つの埋まらない差をオタク君代表の僕は説得してみる。

 

「アンカリング」は、認知バイアス −先に与えた情報(数値)が、後々の意思決定に影響する− の一種で、何らかのアンカー(数値)を用いて、数字の判断をアンカーに近づけようとすること。

マーケティングでは日常的に見られるけれど、例えば、「この商品は1,000円です」という札を見るよりも、「定価2,000円→特別価格1,000円です」のほうが「買う」という消費行動に結びつきやすい。きっと誰もがこの経験をしている。

 

 

このアンカリングをタイの議論に当てはめてみよう。

 

「タイなしの俺1,000円」に対して、「タイありの俺2,000円」。

ただ、実際のところ、同じ「俺」が問題なので、中身、パフォーマンス、人柄などとしては変わらず1,000円。

だから、周囲から見ると「タイなしの俺1,000円」に対して「タイありの俺2,000円→1,000円」というのが現実の見え方。

 

いや、「→1,000円」まで下がってしまったときに、「高く見せやがって」と周囲に思われたくない。だったら、最初から1,000円という表示にしておけばいいじゃん、と潔くて男気があれば、そう思うでしょう。きっと。心意気としてはかっこいいと思う。たいていの場合、オタク君のようなスーツにこだわり、あれこれ考えを持っている人は、どちらかと言えば女性的だ。

 

 

でも、それは「合理的」ではないことを末尾に示す書籍は教えてくれる。

 

 

一般的に(もしくは、合理的に)選ばれるのは、「定価2,000円→特別価格1,000円、タイありの俺」。

 

 

 

心地よい季節。春。街に目を向けると、眼前に広がるのは、不条理な現実。

いや、予想通りではあるのだが。(1,697文字)

 

 

 『予想通どおりに不合理—行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」—』(ハヤカワ文庫2013)2章「需要と供給の誤謬」では、黒真珠、入札、スターバックスなどの事例を用いて「アンカリング効果」を説明する。これは「恣意の一貫性」によるものであり、同じような説明は『影響力の武器(第3版)』(誠新書房2014)の第3章「コミットメントと一貫性」でも現れる。

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