ちょっとスーツに投じるお金について書いてみた。前回の身の丈論につなげる形で。悪い癖で、エモいけどね。

 

前回の身の丈論をまとめると次の一文になる。

 腐心し、我慢し、学習し、そして、相手を敬おうとする配慮と準備のプロセスが次の仕事に結びつき、結果として自分の身の丈を拡大させるかもしれない。

くどくどとスーツのことを書いているが、誤解を恐れずに言うならば「所詮、スーツ」なのだ。別にそんな意識高くして、身の丈伸ばそうなんて考えなくてもいいじゃないのかという議論もある。

お金は「信頼」だったり「評価」だったり「拍手の数」と例えられるように、「支持」を数字で表してくれる。「好き」ならば、やはりその業界にお金を投じることで「支持」を表明したい。また、必要・好きなメーカー、創り手がいれば、そこに投じるべきだろう。お金を支払うことなく、自分の「必要・好き」を継続してほしいと願うのは、エゴだ。

自分自身が成長し、拍手を多くもらい、お金を稼ぐことは、確かに自分自身の所有物をレベルアップさせたいという利己的な理由もある。そのような下心とも取れる心情が出発点かもしれない。けれど、お金は、知識や感覚の身の丈を伸ばす中で生まれる「必要・好き」を資本主義という仕組みの中で、「健全に」も維持させるための潤滑油の働きをする。潤滑油なしでは、歯車は故障してしまう。

 

最初は機械で作られた大量生産の安価なスーツ。次第に、パターンオーダーやイージーオーダーを出来るようになり、より自分にフィットしたスーツを手にする。最終的には、テーラーやフィッターと議論に議論を重ね、世界でたった1枚の自分のために誂えられたビスポークのスーツを手にする。自分の社会的な成長と内面的な充実度に比例するように、着るスーツもアップグレードされていく。

これが普通なのではないだろうか。

これは、キャリアにも符号すると考えている。

最初は代替可能な取り柄という取り柄もないその他大勢の中の一人。次第に、仕事をする中で揉まれ、自分の強みや弱みを把握しながら成果を出していく。最終的に、自分のプロ領域でベストを尽くす中で、他人ではできない仕事を成し遂げる。主役ではないかもしれない。でも、貴方以外では代替できないオンリーワンの存在になっているに違いない。

良く「良いスーツを着れば、成功する」というようなアドバイスを目にする。確かにそういう経験をした人もいるのかもしれないし、事実なのかもしれない。また、一級品を少ないながら所有することは、美的感覚やモノに対する造詣を深めることに貢献する。だから、無理をしてでも良いモノを手にするべきだという考えも、全否定されるべきではない。そもそも、鶏が先か卵が先かという議論なのかもしれない。

 

でも、僕は次の言葉を感覚的に信じている。

「人間の持つものの中で、自分自身に基礎をおかぬ力ほど不安定で、はかないものはない。」(『格言と反省』ゲーテ)

この言葉だとあまりに驕ったように見えるならば、いつものように、ラップの一節を紹介しよう。

「背伸びすんよりは身の丈が良い。その幸はきっと色あせない。」(NORIKIYO 『旧友へ』 『平成エクスプレス』に収録)

 

信じるべきは高価なスーツやブランドではなく、自分自身の力だと思っている。身の丈を把握し、高める。それが幸せでしょ。

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