手元にある100冊を超える本たちから、何度か読んだ本をレビューしてみた。
目的は、次のような個人的な理由で、1ヶ月で集中的に読み返した。
- 知識の抜け漏れがないのかというのを確認したかったこと。
- 価値の無い本を見分けたかったこと。
- ズボンとブランド(メーカー)について知識を確認したかったこと。
手元にあってまだブログに上げていない本たちもあって、その中で良いも
をいくつか取り上げておきたい。
『「いき」の構造』 九鬼 周三 岩波文庫
『ダンディズムー栄光と悲惨』 生田 耕作 中公文庫
『着るか 着られるか』 穂積 和夫 草思社文庫
この3作は、読んで理解することに骨が折れるけれど、僕のスーツに対する考えを根本的に変えたし、精神面でバックボーンとなる本たち。
なお、知識的な網羅性で次の本に匹敵するものはない。
『紳士靴を嗜む』飯野 高広 朝日新聞出版
『紳士服を嗜む』飯野 高広 朝日新聞出版
『洋服の話』 服部 晋 小学館
この3作を本当の意味で理解し、評価できるのはまだまだ先のことだろうなと自分の知識のなさを実感する。
他にも手入れの本とか、テキスタイルの辞典とか、カラーの本とか、いえばキリがないのだけれど、手応えの1つとして、(ビジネスの)スーツについては言語化が可能だってことは確信できた。
つまり、汎用性のある知識に転化できるし、アウトプットできる。それは、再現性をもたらすし、説明的でもあるということを示していて、大きな前進。
「あぁ、センスがいいから」と一言で片付けることができることを、「いやいや」って一晩じゃ足らないくらいに語れるわけで、解釈についても多面的にできてくる。
結局、野球とかサッカーとかのスポーツ観戦とその意味では似ている。
ルールを知らないならば、「あ、この人かっこいい」とか「(なんとなく)上手そう」という感想しか持てないし、持たせることができない。でも、ちょっとルールをかじり、解説が入ってくると「あ、そういうこと!ちょっとおもしろい」となり、しまいには、「俺ならこうするのに!」という主体が芽生える。
最終的に、「お前はどこの監督?オーナー?」と聞きたくなるような人が平然と生まれる。(まぁ、観戦そのものは娯楽だからそれで良い。)
日本における、というか、世界においておかしな状況なのは、アイコン化したブランドというものだけしか知らないのにもかかわらず、「俺ならこうする」と主体性を出すことであって、ルールを知らないのに四の五のいうのはおかしいってなる。それがスポーツ観戦なら、「お前、ルールもしらんのに、ガタガタいってんじゃねーよ。」と諭されるのに、「個性が大切なんです」という主張もされる(広い意味での)ファッションになるとお叱りを受けることは皆無。
むしろ、リーダーである上司自体、黒いスーツにボタンダウンの白のシャツを着ている可能性も多いにある。
日常、それはまさにカオス。
オフィスという場においても、駅という公共の場でも、「個性」という言葉の前で、「ルール」は無力であることを悟る。
でも、だからこそ、「ルール」に則ることに「個性」が生まれるという逆説が生まれる。ここに楽しさと傲慢さと、決して人に好かれないという悲劇が共存する。
いつだって、大衆は大衆で、圧倒的な「個」にしか楽しさは内在しないのだと気がつけたことがこの作業をしていて最も大きな気付きかもしれない。
ということで、引き続き書きます。
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