8ヶ月半のニート生活が終わる。こういった機会は死ぬまで訪れない。格好良くリカレント教育期間とも言えるのかもしれないけど、単なる甘え。そう言い綴るだけだと格好がつかないので、意義深く、そして感慨深く書いてみよう。悪い癖でとても長くなってしまった。もちろん、スーツとは全く関係のない記事なので、あしからず。

 

コロナに関係なくまとまった時間を人とあまり接することなく過ごしたいと思っていた。なぜって。時間が生まれることで、より時間の尊さを感じられる気がしたから。ほら、なんとなくいいでしょ。

 

その経過と日々の最低限の活動を楽しめていた。それは例えば、アイロンをもう少し丁寧にかけてみると新品のような仕上がりになるかなと試してみたり、換気をこまめにしてその時々の風を感じてみようとしたりとか、どうやったら袋ラーメンをより美味しく食べられるかスーパーで安価に買える様々な具を入れてみたりとか、日常の1ページをゆっくり、ゆっくりとめくるよう。確かな充実は感じることができたし、ある程度まで満たしてくれた。手つかずのラッセルや三島由紀夫に触れたり、YouTubeからのラップを一字一句漏らさず焼き付けようと唱えてみたり、書いてみたかった小説を綴り始めたり。孤独を嘆く人があまりに多いのは、残念な気がしないでもない。孤独は空想や創造の原資。それは、尊い。あり余る時間を過ごして、確信できたことのひとつ。

 

人に会わないで完結する世界は不便なわけはなく、むしろ快適。でもそこに衝動は生まれにくい。そう感じはじめた半年が過ぎるタイミングで転職活動を始めた。

 

結果は散々だった。新卒のときの数倍の不採用通知をいただけたのだ。名誉のためにあえて言うけれど、平均的な日本人と比較すれば英語を使いこなせる。海外経験だって多い。転職回数も多いけれど、後ろ向きなキャリアだったとも思わない。だけれど、まるで人がまばらな美術館の中で携帯を落としたあとのように、スカスカのカレンダーが不合格という評価を反響させる。積み重ねた過去と結果のみが評価の裏付け。考えと経験の未熟さ、過信。それらは、ご丁寧に目の前にカタチとなって現れる。逃げてきた過去たちとその結果から目を背けてしまいたいときも、あった。大雑把に、稼いで納税するということを社会人としてのゼロと定義すると、僕にとってゼロはもう手が届かないのではないだろうかという考えが一瞬よぎりもした。

 

「仕事は生活のため」当たり前で、わかりきった本音と常識。でも、そういった「生きるために生きる」姿勢にコミットできない病が治る気配はない。一般的には、青い鳥症候群とか、中二病とか、ピーターパン症候群とか、洒落た名詞をつけてくれている。便利な名詞は、いつだってクールで本質の輪郭をぼやかしてくれるから、とても都合がいい。

 

かといって、「好きなことをして信頼を得てカネを手にして欲しいものをすべて手に入れてやる」と言えるほどの器量と意気込みがないこともよく知っている。ピュアにしたいと思ったコトができる環境に身を置きたい。やりたいことしか考えていないのだから、地に足がついているはずはなく、デフォルトでいつも不安定。いい歳のワガママは見苦しい。そして、仕事に対して社会的意義を見出そうだなんてあまりに無謀であり、近くにしかいないはずの青い鳥を追い求めるオメデタイ奴。僕を他人として見たならば、そう評する。

 

 

前に進むわけでも、後ろを断ち切るわけでもない。

僕は、抱いた衝動にしがみつきたい。

 

 

前に進める人たち。一般には、ある程度の年齢になったにも関わらず挑戦や新しいコトをする人たちはポジティブに評価される。異論はない。リスクテイクできるだけの器量があり、かつ、新しいナニカを始める意気込みがあるのだ。成功しなくても、失敗は人を謙虚にし努力を尊ぶ姿勢、つまり、人としての理想的なあり方を示してくれる。だから新しい事業を創るというような大きなコトでなくても、楽器を始めるとかジムに通い始めるとか趣味レベルのことでも、それらは等しく素晴らしいと感じる。

 

後ろを断ち切れる人たち。なにかを諦めることに対してはあまり肯定的に語られることはないけれど、僕はそう思っていない。家族や子どものため、能力の限界への直面、歩んだキャリアと望むキャリアのミスマッチ、努力への諦め、それぞれに理由があるだろうけれど、「やりたいこと」を断ち切る。あえて否定的に表現すると、諦め。一般的には、成熟。そうして断ち切れる人たちもまたすごいと思う。「すごい」だけじゃ説得力に欠けるから、ゲーテを引っ張ろう。「個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないということを、だれも理解しない(ボアスレ−へ.1827)」のであり、自己を諦めた人は、なにものかになり、なにかを掴める。それは父となり家庭の安定を得ることかもしれない。組織内で課された機能に特化することで後世へ遺産を残すことかもしれないし、諸々の自我を捨て去って残る日々の精神的な平穏かもしれない。いずれにしても、自己中心的な考えをしていると「なにものか」にはなりそこね、手に入られたであろうものも手に入れることができないのかもしれない。

 

国際協力の分野で専門家として動く(開発コンサルで財務分析とかの役割でいくつかのプロジェクトに入れるらしい)。

 

30歳くらいだったか。そういう衝動。ワガママでしかなく、自分のキャリアや能力と努力の数を無視した期待。でも割とくっきりとしたナニカを抱き始めた。40歳までにできないことは、きっとその先でもできない。そうして気がつけば自分で決めた期限の40が目の前にぶら下がっていて、でも、ゼロが遠くに感じられる最近の僕には、文字通りそこに立つことですら夢物語のようでもあった。

 

だから、今の嬉しさを表現すると・・・

Anarchyは「やりたいことを全部やれたら、石につまずいて死んでもいい」とラップしているんだけれど・・・そんな感じ。何も成し遂げてやいないしやれていないので、石につまずいてもいいけれど、まだ捻挫くらいで耐えなければならない。スタートラインに立てるだけだけだから。したいことをするフィールドを与えられることでのみ確かな快楽を感じられる。

 

たくさん時間があったから、言われ続けてストレス(きっと本質かつ核心を突かれて、嫌な気分)になっていた「お前は自分のことしか考えていないし、自分にしか関心がない」というありがたいアドバイスに対して、すごくシンプルな回答も出せた。

 

 

「うるせぇ。」

 

長期間のモラトリアムを経てもなお自己を諦めようなんていうほどに成熟した人にはなれない。ならない。まして、「なにものか」になろうとも想わない。もちろん、そんなワガママを言いながらも、皆が自己を捨てて得られる「なにか」を得ようとするほどに欲張りでもない。自己中心的で見苦しい者の衝動を悪あがきしまくってカタチにしていく日々。ZORN風に言えば、だれかのためではなく、だれかの「おかげで」動く日々。

 

末筆になったけれど、この迷走期間にあたたかい言葉をかけてくれたり、お支払いをしてくれたり、書きかけの小説や職務経歴書を修正してくれたり、就職先を斡旋してくれたり、適量かつ冷静なアドバイスをくれたりしてくれた周囲の人たちに心から感謝を。みんなのおかげで来月からちゃんと前向きな気持ちで納税できるよ。

 

ふと、素直な気持ちをできる限りありのままに表現したいという衝動。これが、ニート生活で最も良かったこと。その意味でリカレント教育期間とも言えるかな。

 

伝えるのが遅くなったけれど。

ありがとう。

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