人からもらうモノで最も尊いと言えるのは、僕にとっては「言葉」だ。気取って言えば、「形容」。

 

久々に和食に味覚を、銀座の夜の蝶たちに視覚と嗅覚とを、そして中華で締めて触覚さえも麻痺させられつつ。すてきな夜。次の日が健康診断だったことをすっかり忘れて。お世話になってきた人に会うのはいつだって緊張を伴う。朝から手汗が止まらない。なのに、ひと目会うとそんなことを忘れてしまう。その人から何かを得て、そして、何か影響したいとたぶん自分なりに集中しているのだろう。ひとしきり騒ぎ、そして、翌朝お礼のメールを入れる。返信はその人ならではの気付きとともに返ってくる。

 

「評価」はどうでもいい。低評価も高評価も。一瞬の動揺や高揚があったとしても、それは瞬間的なもの。最悪の場合、人によっては一般論に終始する。そんな気まぐれで、当たり前のことに自分の時間も、気持ちも乱されたくない。(乱されるけれどね。)仕事の結果も、確かに予想して、それ相応に出るといいのだけれど、そこまで優秀でもない。

 

対して、「形容」はあまりにパーソナル。そして、瞬間的でもなければ、一般論でもない。ウェットだし、仕事は直接的に関係しない。その人が言うからこそ価値があるし、誰もこの関係を知らない。知っていたとしても、感じられるのはその人と僕だけ。その時の言葉は、薄っぺらい和紙じゃ掬い取れない。気づくのに時間を要することもある。

 

Montblancを手にしたのは30歳でその人からのプレゼントだった。今にして思えば、何でも良かったのだと思う。その人が渡してくれたからこそ価値あるものだ。そして、それを携えての海外出張の数々。歴史の名所とその説明。感想。視点や視座。何もかもが新鮮で、どれも知らない世界だった。

そして、形容。今、そのいずれもが尊い。

時間を経るごとに、それらは確実に重くなる。

 

「蓮華草」。

あくまで花言葉の意味ではない。その価値はないだろう。

 

俳人からの引用で、「やはり野におけ」を伴ったほうの形容だ。僕は遊女でもないけれど、この形容を気に入っている。例え、ネガティブな意味だとしても。

そう気づく夜はとても豊かだとも思う。さて、頑張ろ。次、次。

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