何かを選ぶときや決めるときに文字情報に頼る。情報は、一般的なスペックやメーカーのウェブサイト、誰かの評価や雑誌のレビューも含まれるけれど、ひどく個人的な想いや考えを文字に落とす癖がある。加えて、求める色・形・仕様、理由や予算、他の持ち物や身に付けるものとのコーディネーション、使うシーン。ほとんどクレイジーな所業に違いないこの習慣は、安心へとつながる。(そして、ときに物欲という魔物に負けるのは仕方ないのだというキョウリョク:協力or強力な言い訳にもなる。)

 

ある経営者のブログで「どんな仕事を、誰と、どのようにしているときが幸せを感じるのか。これが長く働く上で一番大切」という話を見かけ、自分の習慣も相まって久々にこの2,3週間紙に書き出していた。

 

どんな仕事を、誰と、どのようにするか。

そういえば、そのようにして、今の仕事にたどり着けた。恥ずかしがらずにありていに言えば、今の職場は青年海外協力隊に行く前後の24歳、25歳のときに思い描いた夢をそのまま形にした場所であり、過ごす時間は幸せそのものだった。たぶん、書く習慣がなければ、決してたどり着けなかったし、ほんの小さな努力と結果を会社は過大に評価してくれていたに違いない。

 

 

3月に職場を去ることにした。

 

 

日本の製造業のノウハウを他国に伝えることができたら、製造業を必要とする途上国にとって経済的な貢献になるのではないか。これはイタリア人をはじめとした欧州の技術者にも触れて、より強い確信に変わった。日本人と一緒に仕事をするとおしなべて日本人の優秀さが際立ってしまっていた。優秀な日本の技術者とアフリカに行くことは、その期待をそのままプロジェクトにした時間だった。そして、予想以上に感触はよく、僕は大きな仕事をしたわけでもないのに感謝されるばかりだった。このようなプロジェクトはみんなの税金から成り立っているわけで、感謝を受けて「いえいえ」だなんて謙遜するだけじゃなくて、もっと声を大にして周囲に伝えるべきであったかなと今では少し反省もする。

だから、「すごいんだぜ、JAPAN!」。

 

優秀な同僚との会話は何よりもエキサイティング。「カタカナ用語なんて使いやがって」と意味のわからない揶揄なんてあるわけがない。みんなデフォルトで英語ができる。ときに、英語のほうが言いたいことにマッチしているねなんて言いながら、流暢な英単語で彼ら・彼女たちが心に描くニュアンスを言葉にして伝えてくれる。それも、嫌味なく、ごくごく自然に。

後で、辞書をこっそりと見ていたんだけどね。

 

そして、(同僚を含め)出会う人たちもみなそれぞれに熱い志を持っている。誰一人として、社会課題に無関心な人はいない。ジェンダー格差・環境・平和構築・紛争解決・経済発展とそれぞれに持っている問題意識の軸足は違うこともあるし、立場や見解が違うこともある。でも、「誰かのためになりたい」とピュアに想って動いている、そんな人たちと一緒に働ける。すごくね?これ。それぞれに家族や自分のやりたいこともあるから、もうちょっと給与あればぁなとか、時間ほしいなぁ、なんて気持ちもあるしそんな話にもなったりする。でも、彼ら・彼女たちは、自分よりも周囲を優先する。だからといって自分を犠牲にしているなんて考え方はしないと思う。だから、大抵「もっと良くするにはどうするよ?」ってぶつかりながら仕事に取り組める。

疑いなく今の職場での一番の自己中は、僕だ。ごめんなさい。

 

この仕事と職場、出会う人たちは、そのすべてが24歳のときの僕が知れば、夢のようで、幸せな時間と言うに違いない。そして37歳になった現在でもこうして書き出せば出すほどに疑いなく、夢のようで幸せだと感じる。

 

そう、いつものように紙に書き出して「合理的に」考えるならば、答えは明白。

辞める理由などない。あろうはずがない。

 

 

でも、「非合理的な」選択をする自由も僕たちには、ある。

 

なにかこう、具体的に「こういうことします!」とか、「ここで働きます!」と言えたら、いい感じの締めになるんだけれどね。

書き出したにも関わらず、不安しか残らねぇ。。。困った。

 

 

そんな僕の目の前にひろがるのは、空白のカレンダー。

 

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