7週間の長期の研修が始まって1週間と半分。アフリカ、アジアから10名程度の研修生が来日。僕はこの時期、毎年対応してくれる通訳者の仕事を目の当たりにし、内省を余儀なくさせられてしまう。

 

彼はバイリンガルではない。

学生時代からコツコツ積み上げてきた言葉。数十年にわたり真摯に英語に取り組んできて、彼の今があるのだろう。それを必要なだけ、過不足なくアウトプットする。彼ほどの能力が僕にあれば、きっと「乱用」するに違いない。あまりに出過ぎた、話者よりも目立つような通訳をしてしまうに違いない。でも、彼は決してしない。

彼、それは、語学を学ぶ人間への励み。努力は裏切らないという。

 

彼はさほど年齢も変わらない。

彼が英語を学ぶ間に、僕は何を学んだのだろう。「英語はできるよ」なんて英語に縁遠い人を前に得意気に言ってしまうのは、厚顔無恥という形容がしっくり来る。日本語とキャラで能力の欠落を補う。あさましく、そして、醜い。彼は、「いやぁ、一応(通訳専門学学校の)一番上のクラスに在籍させてもらえているんですけど、全然ですね」と謙遜するし、それはたぶん彼にとってはごくごく当たり前で、偽りのない感想だろう。

彼、それは、語学を学ぶ人間への焦り。差は広がるばかりだという。

 

スーツは好き。でも、たぶんそれ以上に言葉が好きなのかもしれない。

知らない言葉。その人らしい言葉。自分らしい言葉。

 

心に抱く形のない「ナニカ」を表現できる言葉という道具は、音楽や絵画、写真や動画に比べれば、とてもプリミティブだけれど、受け取る人の自由度は限りない。例えば、「赤」という言葉が指し示す「赤」が十人十色であるように。彼はその「自由」の中で、様々な要素から話者と聞き手の思い描く一つの「赤」を示す。その「自由」を感じる一瞬は、とても尊い時間。

 

さて、年度の変わり目まであと2ヶ月。

何をどうしましょうかね。

 

では、ごきげんよう。

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