【エッセイ】サイズに関するそもそも論

ジャケット、スラックス、えりのあるシャツ、ネクタイ、革靴、ベルト、時計、靴下(ホーズ)。

 

ビジネススーツについて、1つずつのパーツを書き出して表現するなら、どれだけかっこよく着こなしている人も、どれだけでたらめな着こなしをしている人でも、文字の上では同じ名詞を使うことになる。

そして、それらが人の視覚を通したときに、なんとなく決まっている、かっこいい、きちんとした、というような形容詞を帯びて認知される。

 

とても乱暴な言い方になってしまうけれど、夜や暗い場所では、生地の質やボタンといったディテール、最悪の場合、色でさえも視覚へ届かないことがある。でも、そうだとしても、僕たちは確実にかっこいい着こなしとそうではない着こなしを判別できる。

それは、適切なサイズかどうかがシルエットを通じて“見える”からだ。

 

みな、色や生地の質感、ディテールにこだわるけれど、この事実からもまずこだわるべきはサイズだと、僕は思っている。サイズが合わないなら、どれだけ生地がよくても、ディテールが伝統的なブリティッシュスタイルだとしても、“何かおかしい”と見えてしまう。逆に、サイズが合っているならば、粗悪な生地で、ディテールに若干のかみ合わせの違いがあったとしても、見られることに耐えうる。

 

 

若干とばっちりな議論になるけれど、靴のサイズが合わずに、カポカポ言わせながら歩く女性(男性にもいるけれど、僕は男性よりも女性のそれのほうが気になる)は、その女性がどれだけ整った顔だろうが、どれだけ美しい後ろ姿だろうが、どれだけ品質のよい衣類と鞄だとしても、サイズの合わないものを見に付けているという時点で、僕は好きになれない(まぁ、その方も僕に好かれようなんて思って着飾っていないけど)。なんでかなぁなんて考えていて、1つそれらしい理由に行き着いた。

なんだか幼稚に見えてしまうのだ。

 

あぁ、子供時代に「大きめを選びなさい」と言われたなぁなんて思い出すことにも由来しているのかもしれない。あまりに未完成である姿は、“大人”とは言い難く、危うさを発する。女性の場合、靴くらいで衣類のサイズ違いというのは、男である僕からすればあまり分からない。ただ、男のそれは、自分が身につけるものであるから余計にわかるし、cm単位、mm単位で“見えて”しまう。

 

ビジネススーツを着ながら、幼稚さを表現したいなんて思う男はいないだろうし、それに魅力を感じる異性もいない。少なくとも大人であれば。

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