【エッセイ】視覚への依存

今日から新規プロジェクトで、ブラジル、パラグアイ、ギニア・ビサウ、アンゴラの人と接している。男性は8名。

やっぱり、写真を取る(正式なシチュエーション)ではジャケットを着るということは徹底されている様子。

ただ、シャツのえりやそでに飾りがあったり、ボタンホールが白ではない糸でかがってあったり、という無駄な装飾を施したものが市場に出回っているのは、日本と同じ。

ただ、やはり面白いのは、彼らのシャツには無駄な装飾はあっても、ボタンダウンでも、胸ポケットがないということ。

”ない”ほうがフォーマルなのだけれど、ボタンダウンなんかだとカジュアルダウンやスポーティーさという意味合いで、”あるべき”とも個人的には感じてしまう。メンタリティの違いなのか、ちょっとこれから2週間程度一緒だから聞いてみたいけれど。

さて、このプロジェクトでの主な言語はポルトガル語で、1名だけ英語が堪能。このシチュエーション(つまり、英語も日本語も使えない状況)は久しぶりで、通訳がフル稼働となる。通訳がいないときには、英語の単語の羅列で会話を進める。こういうときには、笑顔と服装というものがその人の印象にダイレクトに結びついてしまうと気がつく。内面(その人の発する言葉や、思考の深さ)をうかがい知ることはできず、判断材料が少ないため、必然といえば必然だ。

そう考えれば、語学が苦手な日本人はより服装は整えておくべきだろうな、なんて考えていた。

もっとも、そのような状況だとして、笑顔、言い換えるなら愛嬌というもののほうが服装よりは印象を左右する大きなファクターになりえるとは個人的には考えている。ただ、でも、服装が持つ印象も言葉が通じるシーンよりは確実に増す。スニーカーにジーンズだったら、現場メインの人だろうなとか、シャツが適切でサイズもあっているならば、日頃から気をつけているんだろうなと。僕を含めて、人の思考なんて勝手なもので、ただ服装がキッチリしているだけで、「信頼できそうだ」という心証が芽生えを始める。これに笑顔が加われば、もはや彼の内面を何一つ知らないにもかかわらず、「いいやつだ」なんて決め込む。最後に、「アリガトウゴザイマス」なんて片言の日本語で言われようものならば、「この人は聡明だ!」とまで飛躍する。そこにロジックも、説明も、証拠もない。ただ、でも、なぜか確証があるのだ。

いろいろな国の人と接していて、「海外の人」というだけで、なぜだか変に良いふうに見たりということは、少なくなってきたのだろうけれども、言語が用いれない中では、やっぱり目で見た情報に頼ってしまう。

その意味において、服を知ることは、情報の摂取量を増やすことにもつながると思う。何も、自分の見た目を良くするだけではなく、相手を測る(人としてあまりいい態度ではないかもしれないが)指標を増やせる。何も知らないならば、笑顔しか視覚には届かない。

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