オヤジからの学びというよりも、オヤジから若者へ的なぼやき。あ、ぼやくのはおっさんだけだな。

 

排除すること3. 服装で語ろうとすること

取り入れること3.服装で個性を殺すこと

 

 若い時、誰しもが少しくらいファッションに興味を持ったと思う。そういうとき、とかく、「服装で語ろう」という傾向に行きがち。

 それはカジュアルウェアに限らず、スーツでも同様で、大抵のアパレルに関わる人が著した本では、’どのように服装に語らせるか’ が細かに記載される。

 快活に見せるためにはとか、部下に優しそうな上司と感じさせるためにはとか、異性にもてるためにはとか何かしらの「目的」があって、そのために、「手段」である服装を「盛る」傾向がある。

 

 ただ、スーツを着るという行為は、「私的」な自分から、「公的な」自分になるわけで、「個」から「組織のOne of them」になる行為。したがって、あるべき方向性としては、「一人として魅了的であろう」とすることよりも、「組織の一員として、個性を殺すようにする」のほうが正しいように思う。

 

 就職活動のときにちょっと頭をよぎったような考えースーツを着ることを「社会の奴隷になった」というような考えーは誤りで、個人が奴隷になっているのか、どうかは、その人自身のあり方によると思っている。

 

 「個性を出そう」なんて考え方でスーツを着ているならば、それは中高生のレベルと変わらない幼稚で、ひどく子供じみた考え方に属するだろうし、反対に「組織の一員なり、役職、立場から逆算して、公的な自分としては最低限こうあるべき」という軸があれば、それは成熟していると言える。

 

 僕自身、学生時代は風紀委員的なのは好きではなかったし、とりわけ服装に対する規則について、守らなければなんて素直に思ったことは多くない。ただ、いわゆる、大人になったのだとこうして文字にしてはじめて気がつく。規則は守るためにもあるし、原則と例外をちゃんと切り分け、整理するためにも必要な1つの指標だ。

 個性を求めるものは、服(なりトレンド)の奴隷に甘んじるだろうし、軸を持つものは、服を道具・手段として使う。なぜならば、軸があるということは、指示命令系統が自分自身にあるから。この文脈で、「個性を社会が自分に求めている場合」は、「個性」を追求することに求心力が生まれる。その一例が、芸能人やアーティストと呼ばれる人たちであるが、一般人の僕たちが社会から「個」を求められることはそんなに多くないように思う。

 

 もう少し具体的かつ日常に寄せてに見ていく。例えば、ピンクのステッチを配したシャツを着た人を、どう周囲が見るか?

 

ピンク:女子ウケねらってんなぁ。仕事何しにきてんだ?

ステッチ: 飾りねぇ。必要じゃない。目立ちたがりか?

 

 思っている以上に、スーツ姿は多弁だ。

 自分では口を開かないかわりに服装に語らせるというのは、確かに1つ賢明な考えではあるものの、マイナスを語らしてはならない。

 白の質のいいシャツ。飾りは一切なし。どう周囲が見るか?

 

 「自分が目立ちたい、そのためにどうするか?」と考えるよりは、よっぽど成熟し信頼を得る服装に落ち着くはずだ。

 それらの基本的なスタンスを身につけた上で、個性というか、その人らしさとか、こだわりとか、そういうPersonalな部分を出すというチャレンジが許されるように思っている。

 

 結論4. スーツは個性を殺すために用いる。

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