【エッセイ】ぼやき2 靴べら 

排除すること4. : 靴べらをもちいらずに履く

取り入れること4 : 靴べらを使って靴を履く(たとえスニーカーやローファーでも)

 

 ある写真家の帯には次の言葉が書かれてあった。

 「美しいものが美しいのではない。美しく使われているものが、美しいのだ。」

 

 http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/02/28/10.html

 

 この言葉は、いつも南アでのドライバーを思い出させてくれる。南アで使っていた車両会社のドライバーは必ず靴を磨いていた。あまりに毎日キレイなので、最後の日に事実確認した。白髪混じりでシワだらけの顔、鼻からは白混じりの毛が少し出ていたのだけれど、彼のこの習慣は紛れもなく、彼を美しい人間へと昇華させている。

 

 黒、外羽根、プレーントゥ、グッドイヤー(マシンメイド)、決してハイブランドではない彼のその靴は数十万円のハイブランドの店頭に並んだ靴よりも、よっぽど価値がある。あらゆるプロダクトの中だけで、靴だけは劣化しない。正確にいえば、劣化するのだが、それは劣化というよりは、エイジングと表現したほうがしっくり来る。汚くなるのではなく、馴染んでいく。靴のあらゆるパーツは修理がきく。ただ、その中で、かかとが潰れる状態だけは回復されない。したがって、靴べらを使わないというのは、靴に対する冒涜であり、誰でもない所有者自分自身の首を締めていることに他ならない。それは、経済的に、そして、周囲の評価に対してもマイナスだ。踏み潰しているのは、かかとではなく、自分自身の周囲からの評価だと読み替えて理解しておくほうが良いと思う。

 

 スニーカーの靴紐をしめたままで、つま先を地面にコツコツと叩きつけた青春の日々は、まさに若さゆえの過ちであり、大人になってまで同じ過ちをするのは愚行を通り過ごしている。たとえ、酔っ払っていたとしても、クライアントをまたせたとしても、紐を外し、靴べらをつかって靴を履くべきだ。靴べらをつかい靴を履くことを待てないほどの短気な大人が、まともなクライアントになるとも思えない。(ただし、事前に靴紐を外して靴を脱ぐとか、先に玄関に行くなどの時間短縮の努力は必要だとは思うが)

 

 ハーディ・エイミスの言うように、「一度袖を通したら、それまでのあらゆる労力を忘れなければならない」というのは、なるほど、大抵の場合当てはまる。ただし、靴について言えば、履いたあとだとしても適切に思い出さなければならないと付け加えることができる。靴をきれいに扱わない人間は、靴を履く資格すらないと考えているけれど、決して言い過ぎでもないと思う。それは、アフリカ(とかの途上国)の地方にいる裸足の子どもたちを見れば、確かに感じることのできる感覚。

 美しいプロダクトを手にする自由を持つ僕らは、それを美しく使う義務があるようにも感じる。

 

 

結論5: 美しく使う

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