【エッセイ】スーツという生産活動

Classics are classic for a reason. Men’s style has changed little over the past one hundred years. You shouldn’t be the person who tries to break the mold. When in doubt, ask yourself “What would Carry Grant do?”

 

「クラッシックはクラッシックであるという理由があり、スタイルの変容は100年単位で少しずつ起こってきた。その型を破ろうとする人にはならないように。もし、(このアドバイスを)疑うなら、“ケリーグラントだったら、どうするだろう?”と自問してみると良い。」

 

『DETAILS. Mens’ style manual』 Daniel Peres 2007. からの一節。

 

スタイルというものに対しての態度は2つ考えられると思う。

一つは、そのスタイル、上記の引用で言えば、“理由”を詰めて行くこと。

もう一つは、そもそも無いものだとして、無視すること。

 

 

後者の“無視”という選択肢は、潔く、個人的には嫌いじゃない。別に服やスーツというもの、持ち物の一つひとつにこだわれるほどに現代人が暇を持て余しているとは思っていないし、娯楽も仕事も、付随するストレスも多くあるわけで、その上、いちいちClassicなモノを選んだり、その理由を探ろうなんて、客観的に見れば異常だ。だから、あえて「無視する」という態度を守ることは別におかしな話ではないし、「人生損していますよ」なんておせっかいを焼こうだなんても思えない。

 

反対に「理由を詰めていく」という異常な態度は、まぁ、やっぱり異常だなと思うわけで。

例えば、映画に詳しい、食材に詳しい、レストランに詳しい、ホテルに詳しい、音楽に詳しい、芸能ニュースに詳しいというようなあらゆる娯楽や趣味というものは、「共有しやすい」。「あそこのラーメン屋美味いから。」っていう情報は普通に飛び交うけれど、「あのスーツ、最高。」という会話は発生しにくい。なんでかなぁなんて考えて見たところで無数に理由は考えられるけれど、結局、やはりスーツなんてものは自己満足の極みなのだからかなぁというのが、今の段階での結論。

つまり、どれだけ高いスーツで仕立ての良いものを着ていたとしても、その着心地の良さと扱いやすさというのは本人にしかわかりえないものであって、他人にすれば「だから何?」というレベルの話。エンターテイメント性は低い。

また、スタイル自体はトータルバランスであって、同じメーカー(テーラー)だとしても、生地、サイズ、フィッティングに始まり、合わせるタイや靴、用いる時間や場所によって、Well Dresserかどうかは変わる。つまり、消費者は消費者でありつつ、(スタイルを創る)生産者でなければならず、同じモノを買ったからといって、同じ評価を得ることもない。

 

反面、「ラーメン美味い」は、情報を受け取った人自体も手軽にHappyになれる。音楽にせよ、映画にせよ、あらゆる有形、無形のサービスは共有によってHappierに。そこに「解釈」は存在するけれど、「消費」以降、「生産」は基本的に生まれない。

 

 

さて、とりとめもない文章をどこに落としたいかという話だけれど、結局、スーツやその他諸々はWork in Progress (仕掛品)である、ということ。

 

仕掛品のままでもOKだけれど、完成に近づけるためには、やはり知識が必要ってことで、誰に共有できるわけでもない、ひたすらに“無駄”な作業を繰り返す必要がある。

 

まぁ、人生100年ってことなんで、このくらいの無駄は許容されるとポジティブに考えておきます。

 

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください