【エッセイ】赤い靴下

たぶん、これだけずーっと長い時間、生地とか色とか形とかだけを見ていることは経験がなくて、まさに「外見だけ気にして中身のない人」。このAIだとかの時代に、まったく将来を考えない姿勢でいいのだろうかとも思うけれど、ホイジンガの言うように「人とは遊ぶ生き物である(ホモ・ルーデンスだったかな)」が本質だと賭けているので、それはそれで良いということでぐるぐる廻る思考は閉じられる。

 

 

各シーズンにいくつかパターンを作り終え、サイズも合わせ、ある程度1週間なり出張なりを乗り切るだけのワードローブがストックできると、無性にそれを壊したくなる。衝動が渦巻く。

例えば、外羽根の靴、ビットローファー、タッセルを考えたり、コーディネートで4柄入れるどうすれば自然かとか、レギュラーカラーのシャツ着たらかっこいいんじゃないかとか、シルクやリネンではなくコットンのチーフ(というか、ハンカチ)を挿したいとか、赤色の靴下を履いてみたいとか、そういう「(時代遅れだろ、とか、ルールめちゃめちゃ破ってるじゃんという意味で)無理だろ」ってことをしてみたい衝動。

 

2日前、寒い通勤中の朝、歩道に小鳥が死んでいたのを見つけて、「埋めなきゃ」という衝動が訪れた。

でも、ふと冷静に「でも仕事じゃんね。埋めていたら始業時間に間に合わないし、第一どこも舗装されているし、バイキンだらけじゃん。スコップもないし。(結果5分くらい遅れたから、今思うと埋めてうんと遅刻すればよかったと思っているけれど)」と合理的かつ常識的に考え、ふと、デジャブった。

亡くなった小鳥を放置し、通勤の電車で思い出を辿ってみると、それは小学2年のまだいじめられていた(ちっちゃかったからね、たしか)頃、そういや、死んだ小鳥とか猫とか家に持って帰っては裏の山とかに親と一緒に埋めていたことに行き着いた。

 

 

 

 

衝動っていうものを、すぐに消化・昇華できるというのは、きっと自由なんだろうなと思うし、人間らしいとも思う。

その意味で、「無理じゃん」ってことをやり切ってしまう大人を、とても子供だと思うし、自由だと思うし、だからこそ、羨ましく想う。

たとえ、周囲から変な目で見られても、取り戻したいとも。

 

とりあえず、赤い靴下を買いに。

まだ、組み合わせは考えていないけれど。

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