【エッセイ】もらったネクタイを締めるとき

ネクタイは一種の「首輪」であるという記述を見たのは春頃に読んだビジネス書だったか。欧米では、そのような意味もあって上司が部下にネクタイをプレゼントするのだとか。あ、恋人同士では「貴方に首ったけ」なんて使い古された話もあるっけ。

 

上司からもらおうが、恋人からもらおうが、頂いたアイテムを余程の物語と計算なしに体の中心に配置することをしない。いや、究極的に言えば、サイズから色から何もかもすべて「自由」だから、進んで「飼われてしまう」のも悪くないかもしれない。本音で言えば「貴方(のスーツ姿)に似合うと思って」とか「同じ組織の仲間として」というような理由も、ある種の愛を感じるわけで悪くはないとは思っている。でも、なんだか、こう、パワーがみなぎる感じはしない。

 

また、(少し話が逸れるけれど、)冒頭の「首輪」や「溺愛」の意味に加えて「アタリ」のネクタイだとしても、「無駄」に思えてならない。コンサル気取りな口ぶりだけれど、手元のアイテムはMECE(重複なく、漏れなく)を満たす状態を保ちたい。日常ではこの状態を達成させて新しい季節に臨むわけで、新たに加わるネクタイはダブリを生み出すことが多い。

 

 

「お前、ネクタイもらったことないだろう?」だって?

 

何度かあるよ。親友から新卒のお祝いとか、仕事で関係した歳下の方とか。たった数回だったけれど、どれも同じ理由だったから印象的だから思い出して、書きたくもなった。

 

「自分(プレゼントを選んでくれた方)がしめたいと思ったネクタイを選んだ」という理由。

 

 

とても嬉しかったよ。

そのネクタイをするときは、彼らのことを想って締める。ネクタイが映えるように、スーツもシャツも選ぶ。だって、ネクタイが中心だから。

 

この例外が生まれる理由はなぜだろう。

上司に飼われたいとは思わないし、恋人への溺愛ぶりをスーツ姿で示そうなんて思いもしない。でも、男として自分の持ちたいアイテムを僕に託してくれるのって、なんだか男として嬉しいのかな。なぜだか、自分の選択したアイテムですら、価値が霞んで見える。自意識過剰なことは棚上げにして、きっと、仕事中に必要としているのは「所属から生まれる安心感」でも「異性からの愛」でもなく、単純に「勇気」なんだろうなとか。そういうポエムのような結論にするのは、きっと今が夜中だから。

 

そんな人からもらったネクタイを締めるのは年に数回だし、ダブリでもある。そうだとしても、これらのネクタイを必要とする僕はそんなに強くないよう。

遅くなったけれど、だから、ありがとう。

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