海外に出ると“自由”を感じる。一般的な感想だろうし、僕も出張のたびに感じる。対して、日本は窮屈で不自由だとも。ただ、少し見方を変えると、海外で感じるそれは“自由”というよりも、多様性から導き出された、“倫理”とも言える。

 

例えば、日本の履歴書なんかはいい例だと思う。年齢や性別、家族の有無、ご丁寧に趣味まで事前に採用者に知らせることになる。人事採用者は、「いや、年齢や、性別なんかで判断しないよ。」と当然言うだろうし、人事部がそれらを決め手として、採用判断をすることは(たぶん)違法に違いない。ただ、事前に知らされた情報から、何かしらのバイアスがかけられることは、避けられない。

 

54歳、男性、家族なし。

48歳、女性、2人子供あり、配偶者なし。

 

この情報に学歴や職歴というその人の稼ぐ力の下地になる情報と重ね合わせて、想像力豊かな僕たちは、いろいろなバイアスをかける。

 

54歳、男性、家族なし。学歴は平均。転職回数5回。

48歳、女性、2人子供あり、配偶者なし。学歴よし。転職回数2回。

 

前者の男性であれば、あぁ、残念な人とも判断されかねないだろうし、後者の女性であれば、あぁ優秀過ぎて旦那さんと別れても独立して子育てしているのだなといい物語を描くかもしれない。人事が前者の男性に近い属性ならば、同情し助けてあげたいと思うかもしれないし、反対に子育て中の女性ならば、後者を応援したくなる。それは、別に良い悪いの話というよりも、人として感情を持つのは当然であり、仕方のないことだとも思う。

 

履歴書というたった一枚の情報だが、バイアス(差別)をかけざる状況や環境は、倫理観には欠けると言える。これに、海外国籍の人や、起業経験のある人、デイトレーダーで過去稼いでいた人、今後様々な属性の人がキャリアの1つとして、日本の企業で従業員という選択肢を選ぶかもしれない。このときに、僕たちは僕たちの常識を疑わずに非常識な採用活動をしかねない。

 

対するアメリカなんかだとどうか。CV(カバーレター)を出すだけで、性別こそ分かるけれど、年齢なんかの項目はない。趣味を言う必要もない。写真もなかったんじゃないかな?

彼らの歴史の通り、人種での差別も逆差別(アファーマティブ・アクション)もしてはならない。そうなれば、自ずと最初から知らない状況を作り出すほう(志望者の人種が分かるような情報を提供することを拒む)が合理的だ。いわば、多様性が前提だからこそ生み出された“倫理”だと言える。

 

ここで、冒頭の“海外で自由を感じる”と言う本質的な理由が浮き彫りにできる。つまり、別に“自由”だから“自由を感じる”という側面もあるだろうけど、海外にはあって。、日本にはない種類の“倫理”が存在しているとも言える。

 

 

と、スーツに全く関係のないことを書いたと思われそうだけれど、ここまでが長い長い前文。スーツとつなげることにしよう。

 

 

先日の日経新聞。

弁護士が紙面上で、投稿者からの質問に回答するというコーナーがあった。弁護士の胸より上の写真がカラーで出ていた。

黒のスーツ(もしかしたら、濃紺かもしれない)に、ボタンダウンのシャツ(ボタンはなぜか青)、パステルカラー(確か黄色系だったはず)の明度のあるタイ。

“信頼性”を最も重視する職種の1つだと考えられるけれど、そのニーズとは正反対の写真が目についた。少なくとも、僕は投稿者と同じような悩みを持っても、彼が日本一その分野に優れていても依頼はしないだろうし、無料だと言われてもアドバイスは必要としない。

 

バイアス?当然、かける。

窮屈で不自由な考え方だ?当然、そうだ。スーツ姿は稲盛さんの言うように「一番外側にある中身のこと」。

 

目に見える情報に対してバイアスをかけないのは、思考の停止したおバカか、感情を持たない冷徹な機械くらいだろう。

装わない、ということは相手をそういう風に見ている乱暴さとも言える。つまり、倫理的ではない。

 

窮屈だと僕が感じる理由。

ここにも、日本にはない種類の“倫理”が存在しているから。

日本にはそういう乱暴な人が多いからかもしれない。(相変わらず、偉そうな口ぶりだけど、まぁ、いいか。)

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