【エッセイ】クールビズについて

梅雨が明けて本格的な夏。8月は休みばかりにしたので、あまり外に出ることもないのだけれど、FacebookやTwitterでクールビズに対しての意見が来ることがあって、やっぱりそうだよねと同意する部分もある。一方で、伝えたい自分の考えもあるので、まとめておきたい。見る視点、重きを置くことによって、延々と書けるし、重箱の隅をつつくような話になってしまうので、一番伝えたい部分だけ。それは、主体的な選択かどうかという点。(素材の工夫の観点は排除。)いかんせん、メンタリティの話になっちゃうけれど。

 

僕は、クールビズだからネクタイは外さないと“いけない”とか、その反対に、こういうルールがあるからどれだけ暑くてもネクタイとジャケットは着用“しなければならない”ということではないと考えている。まず指摘しておきたいのは、上記の2つの考えは、行動としては全く逆(ネクタイのあるなし、ジャケットのあるなし)になるけれど、本質的に「他者が○○と決めているから、こうする(こうしなければならない)」という部分で共通点がある。一言で言えば、主体性のなさ。

「いっそのこと、スーツ着用なんてなくなってしまえばいい」という意見もあるだろうし、実際、一部上場企業に7月末に行ったときにはスニーカーにポロシャツという方が目立った。IT企業のような先進的で自由闊達な文化だったら、もっとラフでTシャツも許されるのかも。自分の所属する組織、お客さん、そして職種としての一般の認識が、「服装なんてどうでもいいし、Tシャツに半パン、アロハシャツでもいい」というのであれば、その自由な範囲内で選べばいいだろう。(ちょっと自分の本の宣伝になっちゃうけれど)ある程度服装のルールをしっておけば、どこまで自分が崩している(カジュアルにしているか)を、自覚できるというメリットはある。これが、ある程度スーツのことを学んだほうがいいと思う理由。学生時代までで培ったカジュアルベースの知識だと、同じように「自分はここまで崩しているのだ」とは自覚しにくくなるだろう。一言で言えば、最低限のルールから、自分を客観視出来る効果がある。客観とは、客体の視点(周囲の視点)であって、あとに説明する柔軟性からも大切な観点だと考えている。(固い書き方になっちゃっていて、申し訳ないです。)

 

誤解を恐れずに言えば、「所詮(たかが)、服装。個人の責任の範疇」だ。ネクタイがあろうがなかろうが、ジャケットがあろうがなかろうが、彼自身の選択であって、彼自身の責任。大切なのは、その人が「選択した」という主体性。

 

Tシャツに半パンでも、それを「おしゃれで、季節に合わせていていいね」と評価する業界や人もいれば、反対に「礼儀知らずで、非常識」と判断する業界と人もいる。「ルール」や「こうあるべき論」で決まることではなく、個人は観察を求められるし、「空気を読む」ことも求められる。組織、お客さんを見ながら、どこに落ち着ければ地味かつ信頼されるかを考え、決定をする。主体性であり、その人の能力の1つ。

また、少し話がそれるけれど、柔軟性も測られる。

28度に調整された社内で、お客さんや社外の方に会うならば、ジャケットは羽織る。それがエチケットだと業界や職種を鑑みて、一応自分なりに結論づけている。とは言え、人によっては「暑いから脱ぎなよ、ジャケット」と促されることもある。そのような「善意の申し出」を断るのは、柔軟性のなさを強調する。例えば、地元に帰って近所の知り合いが、「これをお土産に」って言って、「(飛行機で帰るから)重くて、かさばるし、面倒だな」と感じて「いや、不要です。いらないです」と言えば、例え事実だとしても、人としての感覚を疑われるだろう。人から貰い物をすれば、一言「ありがとうございます」と言って受け取ればいい。これで、その場が穏便に収まる。件のジャケットについても、同様だろう。善意の申し出を断る理由もない。

本を書いてしまったから、「あ、井本くんは脱がないよね」なんてネタにされることも最近は増えたけれど。上司に同席するときで、「ジャケットはいらないよ」と言われても同じだ。組織において、基本的に自分がどう思うかという以前に、上長の命令に従うことが部下に求められる。上長がコンプラ違反とか、原理原則に反しているならば、上長に従わずということもあり得るが、幸い上司には恵まれている。

 

話を戻そう。

そもそも論で言えば、清潔であることは性別や国籍、年代を問わず、美徳に違いなく、汗をダラダラ流しながら、ネクタイとジャケットを着用しているのは、僕個人でも拷問だと感じる。ここで、僕が書いているようなスーツのルールが云々ということは、劣後するだろう。汗をかきまくって、拭いながら、「敬意を示している」と服に語らせつつも、相手の「ジャケット脱げば?」を断る、というのは、その主体の混乱でしかない。「相手に敬意を示す」ということが優先事項ならば、汗を引かせて、事前に息を平常に戻すために時間に余裕をもたせておき、相手からの申し出があれば、お礼を言いつつジャケットを脱ぐというほうに人としての一貫性があるだろう。ただ、どこかの5つ星ホテルで、お客さん主催の式典という場合であれば、タクシーを使うだろうし、スーツにネクタイをするに違いない。それが、場所とお客さん、周囲に求められるニーズであって、そのニーズに応えようと賢明に考え、服装と行動を主体的に選ぶ。

 

また、半袖Tシャツに半パンは、若くて、体毛もさほど濃くなく、鍛えている体でお腹も出ていない、というような場合であれば見る側からしても嫌悪感は抱かないだろう。でも、僕ももう30代半ばを過ぎてきた。体のラインがあまりに強調される服は、なんだかみすぼらしさが強調されるようだし、できるならば、いい塩梅で隠したいという下心もある。たいていの場合、鍛えていない「自然」なスタイルを周囲の目に直接触れるのは、清潔感のなさの助長に感じてしまう。

 

さて、短くしようと思いつつも長くなってしまった。

結局、結論は「仕事着は、各人の良識+主体性で」となる。

 

ブログで書いているように、梅雨があけて僕もネクタイは外しているし(前のPost「バイバイネクタイ」)、ジャケットも炎天下の元では手に持つ(人によってはジャケットを会社に置くということもあるだろう)。空調が効いたところでも、汗が引くまではシャツのみ。汗が引けば、ジャケットを着る(あまり食べないし、太れない体質で、体脂肪は10%程度。時として、汗が冷えてしまって、寒いというのも理由の1つ)。もちろん、ジャケットを着れば、チーフを挿しているので、ネクタイのない姿にマッチするという美観の観点もある。

 

僕がうんざりするのは、主体性の欠如で、思考停止であること。

何かしら理由があって、そうする、というのは周囲が許す限りにおいて、その人の自由に違いない。ただ、業務中は「自分が(暑い)」というよりも、「周囲が、相手が」を主語にした上で、最適解を探りたい。そう探る「主体性」こそが、周囲を想いやれる人柄に結びつくと思うし、そういった人間関係を円滑にするように努める姿勢こそが、組織や集団で楽しい時間を継続させるために必要だろう。

 

そう、1つだけ蛇足。

僕は「服装はその人の自由」だと言った。だから、(礼儀や敬意を示す話は別にして)暑くても、スーツを着たり、ネクタイをする自由も奪われたいと思っていない。また、季節がもう少し進んで、秋になってウェストコートを時として用いることも、制限されたくない。時流としては、大多数はカジュアル化の傾向になって、それもそれで個人的には批判しない。だから、個人的にフォーマルに傾くことを批判されたくもなければ、訂正されたくもない。ちゃんと、周囲に気を配ることは前提としての自由だと考えているので。

 

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