「個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないということを、だれも理解しない」

 

数多く名言を残すゲーテの言葉だ。それは、どの言葉よりも僕を変えた。

 

 

大抵の場合、自己を追求した先に、偉大な何かになれると考えがちだ。例えば、スポーツ選手や先端医療に従事するお医者さんという職業。その考え方は飽くなき探究心と向上心を土台として、自己と向き合い続けるように僕たちに強いる。結果として(運も良ければ)、プロという領域に達することができる。なるほど、僕もこの考え方に概ね賛成できる。その考え方をベースにライフプランも創るし、日々の仕事にも打ち込む。しかし、大人になり「社会性」と呼ばれるものを身につけるにしたがい、このような考えはストレスを創り出してしまう。

 

組織の考えが優先されるということと、自分を尖らせてプロとしてポジションを獲得していこうとすることとの矛盾。

家族へ費やすお金や時間と、自分の個性を磨くための投資への限界。

周囲に対する尊重と、自己肯定の間に生じる葛藤。

 

もっと簡単に表現するとこうなる。

会社組織か、自分か。

家族か、自分か。

相手(社会通念)か、自分か。

 

集団というコミュニティーを優先させることが「社会性」ならば、僕たちは大人になるにしたがって「自己」を放棄するのが自然の流れだ。人はそれを「成熟」と呼ぶ。そして、「自己」に固執することを「未熟」であるとも。

冒頭のゲーテの言葉は、僕の解釈ではこうなる。

 

「成熟するために、自己を諦めろ」

 

たぶん、みんなそう言い聞かせて、日々を過ごしているのかなとふと満員電車で想うことがある。

 

残念ながら、僕はここまで聞き分けがよくもなく、天の邪鬼を自認している。

 

ゲーテに影響を受けたのは、スーツにおけるスタイルのみだ。

 

ビジネスの場における外見上の自己は諦めることができた。

個性的な格好をしても、誰にも利益は生まれない。自尊心は、ネクタイをピンクにするとか、派手なシャツを着るとか、アンバランスな時計をするというところで補強されるわけでもない。僕の外見に対する考えは、「何者でもなく」「没個性的」で「地味」であることを要求する。

 

ただ、内面的な話をするならば、おおよそ「成熟」からは程遠い。むしろ、どうやって「未熟」を追求してやろうかと腐心する。どれだけ「未熟」でいられるか。いつまで「未熟」でいられるか。どうやって「未熟」で居続けるか。そのために、今何をするべきか。

 

僕は、こうして満員電車の中でバランスを保っている。

 

 

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