【エッセイ】“中身が大切”の嘘

1週間のタンザニア出張。日本人4名での訪問。移動も少ないし、出会った人も少ない。1週間で何が分かるわけでもないのに、みな語りたがる。タンザニアという国を。

ちょうど1日目はW杯の決勝でフランスとクロアチアの試合をしていた。一緒に行った日本人もだし、タンザニア人もサッカーに詳しい、詳しくないにかかわらずあれこれと語りだす。監督の采配が、とか、あの選手のそのプレーがいいとか、悪いとか。

ま、それを言ってしまうと、このブログだってスーツがどうとか言ってしまっているか?

 

結局、みな浅薄な知識で、あれこれと語りたいし、評価したい。

僕を含めてそうだし、別にそれを批判したいわけではない。批判してしまうと、みな何も話せなくなってしまうしね。

問題なのは、その口からでた評価が社会性を帯びる場合。つまり、ビジネスの場合。ネガティブな評価ならば、それは目の前の相手だけではなく、その周囲の人にまで影響が0ではない。誰しも、初めて会う人の知り合いが入れば、「どういう人?」と聞くだろう。もっとも、そこでネガティブな意見をつらつらと並べる非常識な人はいないだろうけど、ポジティブを多く創り出しておくことが、僕たちのできること。結局、人はイメージに左右されやすい。

具体的にタンザニア出張であったカウンターパートのトップに会って出たイメージをざっと出してみる。彼と接していた時間は30分に満たない。彼について話したのは、車中のほんの数分。

 

スマート、洗練されている、思いやりがある、やさしい、先見性がある、やる気にみなぎっている、かっこいい、仕事ができる、頭がいい、人に好かれる。

 

内面と外見を区別して、評論会をしたわけではないのでどちらも含んでいると思うが、このすべての意見が正しいという裏付けをとるには十分な時間があったとは言えない。どこで判断しているかといえば、話しぶりや話す内容もあるだろうが、外見も十分に大きいことを言っておきたい。その証拠に日本人の一人は、「かっこいいジャケットを着ていて、とても洗練されている。仕事もできるし、やる気にみなぎっている。」とコメントしている。事実はジャケットが体にフィットしていた。そして、それはグレンチェックだった。シャツの袖がジャケットから出ていなかったので、僕から言わせれば、ルール違反なのだが、確かにジャケットのサイズについていえば、肩は完璧だった。お尻が丸見えで、カジュアルに見えたのだけれども。

そのコメントをした日本人は、グレンチェックという単語も知らなければ、袖や裾に関わるルールも知らない。単に、“アフリカ人に珍しく(少し失礼だがお許しを)肩幅の合った小綺麗なジャケットを羽織っていた”というだけである。

 

まとめる。

 

評価する側の知識を上回っていれば、確実に外見ではプラスの評価が得られる。中身が大切だなんて、あえて口にしなくとも、誰もがわかっていること。それに加えて、プラスをつけられるかどうか。

装う以上に、どこのスーツだとか、ブランドが、というようなことは自分たちが言わないでいい。勝手に見た人が言いふらしてくれる。

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