【エッセイ】在宅勤務におけるスーツの立場

生産性向上が声高に叫ばれる昨今の労働環境に関わる論争と、7月の異常気象は在宅勤務の後押しになればいいなと思いつつ、今日も満員電車に足を踏み入れることを想像すると、うんざりしてしまう。

 

在宅勤務となるなら、スーツも不要になるのでは?

 

なるほど。例えば、週休3日とかカジュアルビズが進むと考えるとスーツ:カジュアルの比率は変わるかもしれない。仮に毎日カジュアルで出社してもいいということが浸透したとして、着る頻度や持つべき量というものは大きく変わるかもしれない。ただ、スーツそのものの消滅については、「あり得ない」と思う。それは、エイミスの『ハーディ・エイミスのイギリスの紳士服』を読めば決定的となる。

 

「あらましを述べた衣服の社会的立場の変遷は、階級の構造変化によって引き起こされてきたものだ。(中略)スーツはいわゆる文明社会の制服なのである。」(73pから引用)

 

ひどくわかりやすく、シンプルに、誤解を承知で言い換えるなら、「文明がある以上、スーツは生き残る」と言える。そして、人類が「文明を捨てる」ことはあり得ないというのは、自明のこと。

 

では、スーツの位置付けはどうなるのか?

 

カジュアルな伝統やルールを無視したスーツは、カジュアルにカウントされ、埋没するに違いない。その一方で、(こっちのほうが大切だけれど)正統かつルールに則った“文明的な”スーツには、より力が付与されるに違いない。

 

例として適切かどうか迷うが、春画という江戸時代の風俗が、現代においては芸術に昇華するように、よりベーシックなスーツというものが、将来にかけてより文化・文明における高いポジションに位置付けられるかもしれない。

生活に即して考えると、大抵の場合は在宅勤務でカジュアルな服装で仕事ができる。ただし、クライアント先や大切な会議においてはスーツが着用され、その着こなしによって、文明的な人かどうかが測られる、という、カジュアルとスーツの境界が開くかもしれない。

 

能や歌舞伎という文化的なことに限らず、サッカーや野球というスポーツでも、ルールや多少の知識なしで楽しむことはできない。ルールや多少の知識を得るための努力は必須であり、それすらできないなら楽しむことは許されないと言い換えることができる。スーツもそのたぐいのもので今後もそれは変わることがないだろう。

違う点があるとするなら、スーツはより広範な人に関わり、そして、より直接的マネタイズに結びつくという点だろう。

 

したがって、在宅勤務が増えようが増えまいが、お金持ちになりたい、という下心を実現しようとするならば、派手なスーツをお召しになるよりは、どのようなスーツが文明的か、伝統的かをよく吟味し、学び、手に取り、悩み、お金を投じ、自分のものにしていく過程を経る方が、健全な表現であり正しい方法と言える。

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