【雑記】制服と本と

夏休みということでスーツも見ない。暑いから外にも出ないし。スーツを見ないと、他に意識が向く。Amazon Primeか、英単語か、読書か。健康に気を配るのは、2020年からだなんて言いつつ。そして、意識は過去にだって簡単に飛んでしまう。

 

決して経済的に恵まれた家ではなかった。未だに懐かしく思い出す話はいくつかある。

 

小学校2年生か3年生ごろだったか、学校の制服が変わった。正確にいえば、何年かの移行期間が設けられた。それまでは、上下ともにコットンの体操服と兼用のもの。新しい制服は、誰だかわからないけれど、デザイナーの名前がついていたのか定かじゃないけれど、ブレザー。ブレザーと共地の半ズボン、インナーは鹿の子のポロシャツだったか。とにかく、これまでの体操服兼用のカジュアルな制服は、次第にちょっと良さげなおぼっちゃんが着ていそうな制服に変わる時間が設けられた。ま、黄色の安全帽を被らせるならば、体操着兼用のほうが似合っているだろうにとは、当時よく思っていたが、20年近く経ってようやく言う機会が訪れた。

 

話を戻そう。

移行時間の早い段階で新しい制服を着ることは、集団生活においては目立つこと。クラスのお金持ち(平均かそれより少し上の所得層なのかもしれないが、僕にはお金持ちに見えた)の人たちが、すぐに新しい制服に変わったわけではない。ただ、夏休みの後、運動会のあと、冬休みのあと、こういった区切りの良いところで、次第に新しい制服は増えていった。決して、皆それを話題にするわけではないけれど。確実に。

 

学校という特殊な環境下で、唯一にして絶対の正しさは、常に多数派にある。次第に少数の体操服になることに恐れがなかったといえば嘘になる。「俺のときは、給食費すら出してもらえなかった」と言う父に、いらだちがなかったと言えば嘘になるだろうし、当時の僕に若い彼らの所得とクラスメートの可処分所得の違いを理解しろと言ってできるものでもなかった。

だから、私事で言えば、制服にいい思い出なんてないし、正直嫌いだよ。高校は男子校だったから、かわいい女子を毎日拝めたわけでもないしね。そして、スーツを制服とみなす風潮も好きじゃない。それは、没個性的だからという理由よりも、僕にとっては、所得の違いを示す1つの象徴だったから。

 

当時の家計は決して恵まれたものではなかったはずだ。僕の両親は若くして僕を生んだ。彼らが27とか28の時の話だ。子どもの制服に、着替えを含めれば数万円を捻出することは、今の僕が感じる以上に負担だったに違いない。(念の為に断っておきたいけれど、親を批判したいわけでもなければ、不幸だった話に同情してほしいというわけでもない。誰だって、この手の話はいくつかあるだろうし、幸せは相対的なものではなく、絶対的なもの。僕は、僕自身で十分に恵まれ、幸せな家庭に育ったと認識している。)

 

さて、そのような家庭で、お金を使う上での例外事項があった。それが、本のお金。これだけは、好きなだけ使うことができた。だから、未だに月に数万円を投じてしまう悪い癖を抜け出せない。

 

(ちょっとマクロな話に飛ぶけれど)YouTubeやまとめサイトで、有名な本の要約的なことは簡単に手に入る。ただ、結局のところ、僕にとってそうであるように、多くの人にとって事実なのは、「本は筆者と自分との対話」であって、その対話から生み出される部分(解釈とも言えるかもしれないけれど)に価値があること。こういった意味で、「本は友達」という比喩は言い得ているし、大切な友人なんだったら、カネも時間も費やせる。

 

そうして、まさか、サラリーマンの制服(僕にとっては好きではないこと)とも見なされる題材であるスーツを本(友人)で表現するだなんて思ってもみなかったけれど。

 

 

さて、この2,3日で7冊くらい読んだけれど、手元に残す本が一冊できたからタイトルだけ挙げておきたい。

 

 『自分の時間』(アーノルド・ベネット著、渡辺昇一訳 2016) 

 

台風、被害が少なくありますように。

 

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