長いお休みが終わり、会議が立て続けに入っている現実を直視することになった。あの資料をまとめておかないと。事前に調査してレポートつくっておかないと。連休中にもらったメールを会議資料に入れ込んでおかないと。参加者は5名。印刷するのは、この資料だけでいいだろう。白黒で問題ないな。
誰もが経験する「準備」。ふと、当たり前のことに気がつく。
毎日は「準備」の連続、なのだと。
天才的な才能があれば、「準備」なくしても色々とうまくいくかもしれない。
もしくは、殺人的なスケジュールを過ごしているのであれば、うまく行かせるようにその場で付加価値をかけつつ、会議なり打ち合わせをまとめることができるのかもしれない。そうだとしても、会議や打ち合わせの直前は、どう話を運ぶのかを頭の中でシミュレートするだろうし、必要な情報がどこにあるか、すぐに相手に出せるのか、そんな「準備」をすると思うのだが。自分の事情や都合は横においてもいいが、会ってくれる人の時間を無駄にはできないし、希望や期待を事前に見積っておくことは、最低限の姿勢だとも思っている。
幸いにして、この「準備」が嫌いというわけではないよう。
もっとも、「準備が嫌いだ」なんて言ってしまえば、仕事が嫌いだということと同義なほどに、地道なことの連続が毎日だろうし、たぶん、大抵の人はそうなんじゃないかなとも思っている。毎日がワクワクハラハラ、ぶっつけ本番の連続という人生もあるのだろうけれど。
何を経験するにせよ、一人ひとりの心がけかなって思ったりもするから、「準備」でもわりかし簡単にワクワク、ハラハラしちゃうのは、お得な性分なのかもしれない。
書類の枚数、時間、場所、部屋の明るさやプロジェクタとのコネクタの種類、先方はお茶が好きか、水がいいのか、そういう細かな部分まで「準備」するのに、なぜだか服装は曖昧なままなんだろうなって感じることが多い。言い換えると「準備」の範囲に服装が含まれないってこと。
シワだらけのジャケット。生地のほころびの多いシャツ。クリースのなくなったズボン。手持ちの部分がボロボロのカバン。靴を脱いでしまうと、薄くなったかかとが露わな靴下。汚れた靴の先。踵が曲がった靴。
これもまた日常であって、現実か。
匂いや明らかな汚れはさすがに指摘が入るかもしれないが、上にあげたような小さな部分、とりわけ「劣化」に対して、みなあまりにもおおらか。書類の誤字やちょっとしたインデント、お土産物の包装紙や紙袋には、厳しいチェックが入るのに。
このアンバランスさが、気持ちが悪い。
サイズは買い間違いをしてしまったという「準備不足」があったのだとしても、清潔感は心がけと時間をかけさえすれば、維持することができる。
本来すべきことが、なされていない、というのも、気持ちが悪い。
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